それはいじめと呼べるのか?
ここ数日あまりにも簡単に命を落とす未成年が増えています。
その中で地元の隣の岐阜県瑞浪でおきた自殺について少し気になることがある。
ニュースでは客寄せでより過激に、学校が1度認めたいじめを、公式発表で隠し通しているとあおっていますが、私は世間一般の認識でいう「いじめ」はないような気がします。
それは「いじめ」の感じ方であり、現代の若者は何でもイヤな思いを「いじめ」だと定義し、抵抗できない何ともしようがない、と感じているようなフシがあるからです。
確かにその時代時代で物の感じ方の基準は違いますが、特に最近の小中学生は抵抗力が無さ過ぎる気がして、部活動でレギュラーと補欠に差別があったり、その人当たりが違うのは当たり前で、自分も中学でキャプテンだった時は、大量の新入部員を減らす為に、無意味な長距離走や筋トレなどを課したし、精神的にも結構イジワルをしたものです。
しかし、そこを通過してきた部員は、やはり見どころがあり精神的にも大人の、教えがい鍛えがいのある者がほとんどで、そこから初めて部活動としての付き合いが始まることが殆どでした。
さて現代の若者が感じる「いじめ」の定義とは何なのでしょう?、自分に取ってイヤなこと?、気に入らないこと?、思い通りにならないこと?、そりゃあたりまえです、特に部活動はそれぞれが目標と得意自慢を持って集まる同好ですから、いきなり対立があってあたりまえ、そこで努力や実力、会話や相談をもって認めたり、認め合ったり、今がダメでもいずれ結果で認めさせる位の、地道な努力が花開く、そんな人生経験を積む大人としての最初の一歩が部活だと思うのです。
そんなの昔の話じゃん、今はもっと陰湿なんだよと言う学生もいるでしょう、でも程度の差こそあれ、色んな大人が学生の頃、「自分達は一番キツイ思いしてる」と感じながら通ってきた道なのです。
それでも今のように簡単に自殺などは選ばず、今アナタ達のお父さんやお母さんになったりしてるのであって、それを経て今を、だらだらといやそれなりに生きているのです。
履修不足の校長の自殺を聞いたときも思いました、死ねば何でも0になる発想はズルイ卑怯だと、たとえ死んだ当人に対しても思います、そんな恐い事ができる勇気があるなら、その敵対者がひるむまで暴れて抵抗して実力を認めさせようと努力して、周りが飽きれる位アピールしなさい、それでもダメなら死になさい。
死ねば相手も困るだろうと思ってもそれは一瞬、3日も経ては次の連鎖自殺がおきます、だれもアナタの被害妄想を同情してくれる人は残りません、だったらジタバタしようじゃありませんか、多少迷惑かけたって、あなたを知る人にとって、それだけでも生きた証のなるのですから。
| 固定リンク
「ニュース」カテゴリの記事
- ゴルフ賞金ランク報道:石川遼びいきの気持ち悪さ(2009.10.26)
- 警察官とパンツ(2009.10.20)
- 政権交代で老害排除(2009.08.30)
- トヨタ「残業再開」の意味不明(2009.05.30)
- 偽バブル世代の憂鬱(2007.01.29)
この記事へのコメントは終了しました。
コメント